台湾のレトロ&モダン建築を探して
新型コロナウイルスによる海外渡航の自粛もあり、約3年振りの海外出張。場所は台湾です。
都市開発が進められ、高いビルが多く建設されているのと同時に、日本統治時代(1895~1945年)に建てられた、歴史的建造物が多く残る街を歩いていると、まるで昔の日本にタイムスリップしたかのよう。現在では、その統治時代の老朽化した建物をリノベーションして、商業施設やカフェに形を変えることが流行し、話題の新スポットとして賑わいを見せています。
今回は、そんな新旧が織り成す美しい台湾の建築にフォーカスを当て、ご紹介いたします。
- ※この記事は「News Letter Vol.32」の内容を再編集したものです。
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台湾のモダン建築
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台北101(台北市)
台湾で最も高い建築物。地下5階・地上101階建で、高さは509.2m。7年の工期を経て、2004年に竣工しました。2007年にブルジュ・ハリファ(531.3m)に抜かれるまでは、世界一高い建築物でした。
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台北南山広場(台北市)
「台北101」の北東に隣接する超高層ビルで、低層の商業施設と、高層のオフィスビルで構成されています。高さは272mで、2017年10月26日竣工。建築設計から照明デザイン等、すべてを日本企業が担当し、日本の高層ビル建築のノウハウが注ぎ込まれています。
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高雄85ビル(高雄市)
1994年着工1996年竣工。高さは地上347m、アンテナを含めると378m。中国広東省出身の建築家で画家の李祖原が建築を手掛け、中華文明の伝統を受け継いだ現代建築が特徴。
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台北市立図書館北投分館(台北市)
「世界で最も美しい図書館トップ25」に選ばれたこともある、台北一お洒落といわれる、地上3階建の木造建築。建物の計画・建設・運用・解体まで、一連のライフサイクルで生じる環境的責任と、資源効率性を考慮して設計されています。「台湾初のグリーンビルディング」として、9つの指標を掲げており、屋根の傾斜は、太陽光発電と雨水のリサイクルシステムのために考えられたものです。
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台中国家歌劇院(台中市)
日本の建築家・伊東豊雄が設計し、2009年着工、2016年にオープン。「サウンドケーブ (音の洞窟)」をコンセプトに、カテノイド(懸垂面)を用いた三次元曲線の壁面が最大の特徴で、これを実現するために、58枚の大きさの異なる曲面パネルを組み合わせた「ニュートラスウォール工法(※)」で施工されています。
※ニュートラスウォール工法: 合板型枠を使用せず、成型鉄筋トラスとメッシュ型枠の組み合わせで、従来施工が困難であった、曲面や不定形屋根のRC構造物を容易に作れる工法。
台湾の歴史的建築物&レトロ建築
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台北圓山大飯店(台北市)
台湾で最も有名な5つ星ホテル。日本統治時代に剣潭山に建立されていた、台湾神宮の跡地を利用して、1952年に建設されました。「龍」「石獅」「梅花」のモチーフがふんだんにあしらわれた、中国宮殿建築の代表的建築物となっています。
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桃園景福宮(桃園市)
1811年、当時蔓延していた疫病を治めるために、この地に住む人たちにより建立され、その後、国家三級古跡に認定された寺院。豪華絢爛な装飾の中、ひと際目を引くのが、花やフルーツが立体的に表現されたレリーフタイル。
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林本源園邸(新北市)
台湾五大豪族のひとつである「板橋林本源 (板橋林家)」によって建てられた邸宅庭園で、1853年起工、1893年に竣工しました。日本統治以前の建物が残っていることは珍しく、台湾に現存している建築物・庭園としては、保存状態が最も良好で、1985年、台湾政府により文化資産に登録されています。静寂に包まれた空間の中で、繊細にデザインされた建物の装飾や塀等、当時の建築を楽しむことができます。
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林朝宗古厝(宜蘭県)
1925年に建てられた、大富豪・林朝宗の旧邸宅は、装飾に拘った中庭付きの住居。シンプルな構造の中にも、マジョリカタイルなどがふんだんにあしらわれています。
台湾のレトロ建築を彩る「鉄窓花」
台湾の街を歩くと「鉄窓花」と呼ばれる、鋳鉄製の格子窓を見かけます。鉄窓花は、防犯上の目的で設置されたものですが、多彩な装飾が施され、台湾レトロ建築の醍醐味と言えるでしょう。1990年代にステンレスが登場すると、手間の掛かる鉄窓花は姿を消していきました。
台湾と日本とマジョリカタイル
台湾では、清時代からすでにセラミックタイルを建築物に用いていた記録があり、日本統治時代には、日本から持ち込まれた「和製マジョリカタイル」が、多くの台湾の建築物に使われました。長い年月を経ても色褪せることのないタイルは、今も台湾の街に彩りを添えています。
台湾と八田與一
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鳥山頭ダム(台南市)
1920年に着工し、1930年に完成。嘉南平原の農業用水導入のため、日本人土木技術者の八田與一が建設を監督したことから、別名「八田ダム」とも呼ばれています。
20年越しの夢叶う!
3回目の訪台で、初めて憧れの地を訪問できました。
私は、日本統治時代に台湾の土木建築を支えた偉人である、八田與一さんのことを知って以来、いつか「烏山頭(うさんとう)ダム」に行ってみたいと、ずっと思っていました。台湾には、これまで2度訪れていたのですが、なかなかスケジュールが合わず、彼の地を訪れることは出来ずじまいでした。
そして3度目の今回、現地のお客様のご厚意もあり、ついに憧れの地を訪問することができました!台湾の発展に貢献した、偉大な先人に想いを馳せながら、現地の広大な景色を眺めていると、彼の手掛けた大きな仕事と、それを成し遂げた強い意志に、改めて感動させられました。
八田 與一(はった よいち / 1886~1942年)
1886年2月21日、石川県河北郡今町村(現 金沢市今町)生まれ。東京帝大工学部土木学科を卒業後、台湾総督府土木局に勤め、衛生工事に従事し、烏山頭水庫(烏山頭ダム)と、総延長16,000kmにおよぶ給排水路の建設に携わりました。
烏山頭ダムと給排水路は「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼ばれ、嘉南大圳の建設により、嘉南平原は台湾一の穀倉地帯となりました。このダム建設の中心的役割を果たした八田氏は「嘉南大圳の父」として慕われ、今も台湾で敬愛されています。
1942年5月8日、フィリピンへ南方産業開発派遣隊として太洋丸に乗船中、東シナ海上において米潜水艦に撃沈され、56歳で殉職。鳥山頭ダムを見渡せる位置にある、部下たちによって建立された銅像には、彼の命日になると、今も献花が絶えません。
まとめ
いかがでしたか? 今回の台湾出張では、念願の地を訪れることができ、現地の方たちの優しさにも触れて、充実した旅となりました。
長い間、海外出張を自粛してきましたが、これからは精力的に海外を回りたいと思っています。今後も、海外出張の様子などもご紹介していきたいと思いますので、ご期待ください!
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