美濃焼と、美濃地方の土について
美濃地方で窯業が発展した大きな理由の一つに、自然の恵みである「資源」があります。この土地では、様々な粘土が生成できる「原料土」、製陶に適した「中性の軟水」、焼成の際、高火力の元となる「赤松の木々」が採取できるのです。それはまさに、美濃地方ならではの特徴なのです。
- ※この記事は「News Letter Vol.28」の内容を再編集したものです。
- ※News Letterのバックナンバーはこちら
東海湖と火山
美濃地方で良質な粘土が豊富に取れる理由は、今から500〜400万年前に遡ります。東方(現中央アルプス木曽山脈)の隆起に伴い、現在の濃尾平野を中心とした一帯の沈降が進み、巨大な淡水湖である「東海湖」が出現しました。美濃地方は、その湖底にあったのです。
火山の中でマグマがゆっくり冷えて固まり、深成岩の一種「花崗岩(別名・御影石)」が形成され、風雨や寒暖などによる風化作用で、「風化花崗岩(藻珪)」となりました。それが東海湖に流れ込み、アルカリ質が抜けて粘土化したことで、大量の粘土鉱物が生成されました。
東海湖の発展と衰退
河川から海へと流れ出てしまえば、粘土はなくなっていたかもしれませんが、それを阻止したのが東海湖の存在でした。きめ細かい粘土は下流へ流れ、自然の水簸が行われ、やがて粘土層ができました。
東海湖が時代とともに分布域を変えたのに応じ、堆積時期の異なる粘土層が、異なる堆積環境のもとで形成されたのです。そして、約130万年前に東海湖は消滅したと考えられています。
美濃焼の3大原料
なぜ美濃焼は発展したのか
他産地と何が違うの?
-
美濃焼の場合
2種類以上の原料を混合し調整する「足し算方式」
-
他産地の場合
原料の余分な部分を削って抽出する「引き算方式」
美濃焼の歴史
岐阜県東濃地方では今から1300年前より、多種多様な焼き物が作られてきました。
-
古墳時代(BC300)
山の斜面を利用して地下式・半地下式の窖窯(あながま)が造られ、土器とは異なる硬質の焼き物「須恵器(すえき)」が焼かれた。
-
平安時代(AD794)
釉薬をかけて造られる「灰釉陶器(かいゆうとうき)」の登場。
-
鎌倉時代∼室町時代(1185)
庶民の器として釉薬をかけない「山茶碗(やまじゃわん)」が主流に。
-
戦国時代(1467)
地上式の大窯(おおがま)が考案され、「天目茶碗(てんもくじゃわん)」や全面に施釉された皿、「すり鉢」等が量産された。
-
安土桃山時代(1568)
「瀬戸黒(せとぐろ)」「黄瀬戸(きぜと)」「志野(しの)」が登場。
-
江戸時代初期(1603)
九州から連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)が導入され、「織部(おりべ)」や「御深井(おふけ)」の茶道具が武将を中心に流行。
-
江戸時代中期(1681)
茶道具の他に、「すり鉢」や「とっくり」など日常雑器の大量生産がはじまった。
-
江戸時代後期(1781)
陶器より白い磁器が登場。九州では陶石と呼ばれる原料を使用するのに対して、瀬戸や美濃地方では、蛙目粘土に長石や珪石を混ぜた土で「染付磁器(そめつけじき)」が造られた。
-
明治時代(1868)
型紙摺絵(かたがみすりえ)や銅板転写(どうばんてんしゃ)などによる、同柄製品の大量生産が開始。
-
大正・昭和時代(1912)
近代的な石炭窯(せきたんがま)へと転換し、電動ロクロでの成形が主流に。
-
平成・令和時代(2021)
美濃焼の陶磁器生産量は全国シェアNo.1を誇り、陶芸作家の活動拠点となっている。
焼き物とSDGs
奇跡の土が採れる美濃ですが、土は無限のものではありません。実際に鉱山の閉鎖が進み、原料枯渇問題が浮き彫りになってきています。新しい原料開発として、食器メーカーが排出する捨て土(クデ)を使用したり、食器を粉砕したセルベンを使用したりすることで、資源循環する取り組みをしています。
さらに、弊社の「ecoRevo®」では、溶融スラグ、いわゆるゴミを使ったタイル開発に注力し、タイルを通した循環型社会の構築に取り組んでいます。
まとめ
いかがでしたか?火山や、東海湖など、美濃地方ならではの偶然が重なり、悠久なる時が産み出した大自然の恵みが、「美濃の土」だということがお分りいただけたでしょうか。
弊社・エクシィズでは、美濃の土の可能性を広げるため、「MINO SOIL」という新たな挑戦をはじめました。奇跡の土である美濃の粘土をどのように製品化し、皆様に届けていくのか。また、限りある資源を、どう守っていくのか。これは、美濃の地にある会社として、またタイル商社として、考え続けていくべき課題だと思っています。
■ブログアンケート
*印は、入力必須です。