タイルの歴史 中国・日本編
エジプトに初めて登場した「ファイアンス・タイル」から遅れること約3000年。東洋では、タイルの原型といわれる「塼(せん)」が、中国で初めて作られました。今回は、中国と、その中国からの影響を色濃く受けた、日本のタイルの歴史をご紹介いたします。
- ※この記事は「News Letter Vol.20」の内容を再編集したものです。
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中国のタイル史と、日本への伝来
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紀元前1000~770年頃
塼(せん)
塼(せん)は、中国王朝周の時代が始まりとされ、古代中国建築において積み重ねて使用された建築材料。土の塊(かたまり)を、日に干すと「日干し煉瓦」になり、低火度焼成で焼くと「塼」になります。
塼は、紀元前221年から始まった「万里の長城」の建造にも使用され、塼を用いた最古の建築物は、520年に建立された中国河南省にある「嵩岳寺の塔」とされています。
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230年頃
画像塼
中国六朝時代に墓室の建築が盛んになると、鳳凰や龍・神像・仙人などを浮き彫りした塼が登場し、墓室の壁面を飾るための「画像塼」が焼かれました。
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588年
屋根瓦
百済から渡来した4人の瓦の専門家によって、塼が日本にもたらされ、日本で初めて屋根瓦が使用された建築物「飛鳥寺」が建立されます。
飛鳥時代に入ると、瓦陶兼業窯が出現。京都府宇治市の「隼上り瓦窯(はやあがりがよう)」で、瓦と須恵器(すえき)が同じ窯で焼かれるなど、寺院や墓の建設に従事しました。
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607年
敷瓦
中国から伝わった塼を、通路や床に敷き詰めたものを「敷瓦」といいます。607年、中門に黒色の敷瓦を使った「法隆寺」が完成。
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751年
緑彩花文敷瓦
東大寺の建立時に使われた、日本最古の施釉された敷瓦。
なお、日本に現存する建物で、最古の施釉敷瓦は、1652年建立の愛知県瀬戸市にある「定光寺」。濃い鉄釉をかけた上に、薄い鉄釉で唐草模様を手書きした敷瓦を、今でも見ることができます。
戦国時代~江戸時代のタイル
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1593年
陶板
熊本県・天草で「セミナリオ陶板」が製造されました。セミナリオとはキリシタン学校のことで、陶器の板の表面に学校などの建物を、裏面にはキリストが磔になった図絵などを焼き付けたもの。もとは16世紀にポルトガルからやってきた宣教師が持ってきた銅版品を、陶板におきかえたものだと言われています。
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1600年頃
腰瓦
屋根瓦以外で、建物の外壁や腰板部分に、瓦を貼るための陶製建築材料。1677年に建立された、京都の西本願寺経蔵内には、蟠龍や霊鳥を描いた34.7センチ角の柿右衞門様式の伊万里焼の磁板312枚が使われました。
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1813年頃
本業敷瓦
六古窯のひとつ、瀬戸でつくられた敷瓦の総称。その製造方法は、練土による湿式成形で、まず木枠で周囲を固めた中に、練土を押し込み成形。コバルトの藍や鉄の茶色を用いて、幾何学文様などを転写したのち、摂氏約1200度で一度焼きする、というもの。輸入タイルから学び、ヨーロッパ調タイルの影響を色濃く受けた「本業敷瓦」は、タイル貼の先駆け的な存在となりました。
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1834年頃
淡路焼敷瓦
「本業敷瓦」の人気に影響され、淡路島では多彩色の「レリーフ敷瓦 (多彩色硬質陶器タイル)」がつくられました。「本業敷瓦」は陶器質が多かったのに比べ、淡路焼敷瓦は硬質陶器でした。二度焼き(摂氏1200度で締焼きし、1050度で釉焼きする)のため、彩色の幅が広く、鮮やかな多色模様を再現できました。
大地主の賀集珉平が、京都から陶工の尾形周平を呼び寄せて陶芸を学び、完成させた「珉平焼 (淡路焼)」は、角形や花形などの花瓶敷や敷瓦など、装飾品の用途として発展しており、タイルへの転身の相性が良かった謂われています。
【美濃地方のタイルの歴史】
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1742年
瀬戸、美濃地方の敷瓦が普及する。
明治・大正時代のタイル
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1890年頃
旭焼タイル
1870年にドイツ人化学者 ゴットフリート・ワグネル博士が佐賀県・有田に赴任し、石炭燃料の磁器試験窯を築いたのち、1890年に東京の深川区東元町(現在の江東区)に「ワグネル旭焼工場」を設立。タイルの輸入が盛んに行われる中で、ワグネルは輸出用ストーヴの飾りタイルを製造しました。これが日本で初めての「半乾式飾りタイル」です。
旭焼タイルは、各種展覧会で好評を博しますが、1892年にワグネルが亡くなると、その僅か3年後には経営難に陥り「ワグネル旭焼工場」は閉鎖されてしまいます。
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1900年頃
国産マジョリカ・タイル
国内各地では、耐火煉瓦製造の技術を取り入れ、湿式成形法による「施釉化粧用張付け煉瓦」の製造が盛んになります。同時に、瀬戸の本業タイルや、淡路の硬質陶器タイルなどが、英ヴィクトリア朝のデザインを真似たような装飾タイルを造るようになり、それらは「国産マジョリカタイル」とも呼ばれました。
京都の銭湯「藤の森温泉」を改装したカフェ「さらさ西陣」では、壁一面に張られたマジョリカタイルを見ることができます。
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1908年
乾式硬質陶器タイル
これまでの湿式方法では、輸入タイルと同レベルのタイルを製造できませんでしたが、不二見焼合資会社と淡陶がそれぞれ、原石を粉砕し微細化して液状にしたものを乾燥・粉末化し、高圧で圧縮してタイルを成形する「粉末乾式圧縮法」でのタイル製造を成功させました。
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1910年
国産モザイク・タイル
1887年から、常滑で陶管の製造をしていた伊奈初之丞(伊奈製陶所)が、陶製モザイクタイルの国産第一号を製造しました。
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1922年
アメリカ式テラコッタ
伊賀窯業、伊奈製陶、大阪陶業などが、アメリカ式のテラコッタの製造に着手しました。
また、この年、それまで「敷瓦」「壁瓦」「化粧煉瓦」「貼付煉瓦」など、定まっていなかったタイルの呼称を、平和記念東京博覧会への出展を機に、英語のtileに由来する「タイル」に一本化することが決定しました。
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1923年
スクラッチ・タイル
内装と外装に「大谷石」と「スクラッチ・タイル(湿式成形無釉タイル)」を使用し、フランク・ロイド・ライトが設計に携わった「帝国ホテル」が完成。スクラッチ・タイルは、これ以後1935年頃まで、外装タイルの主流となります。
【美濃地方のタイルの歴史】
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1914年
東濃地区のタイル生産の始まりは、岐阜県土岐郡多治見町で、長谷川淳一が富田製陶所(後の山京製陶所)の登り窯を使って焼いた、マンガン入りの磁器質タイル。長谷川はその後、1921年に日本タイル工業株式会社を設立し、西洋建築用硬質タイルを生産。国内および中国・南洋・インドへと輸出しました。
昭和以降のタイル
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1926年頃
湿式粗面タイル
昭和に入ると、スクラッチ・タイルの人気の裏で「湿式粗面タイル」が登場。それを使った甲子園ホテルなどの建物が次々と竣工されます。
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1930年頃
施釉タイル
大正期は、大部分を「無釉乾式小口平」が占め、それに白や淡黄色の釉薬を施したタイルがわずかにある程度でした。1930年には、スクラッチタイルに施釉したビルが登場し始めます。
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1937年頃
半磁器タイル
伊奈製陶が「磁器質タイル」と「陶器質タイル」の中間の性状の「半磁器タイル」の生産を開始。
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1940年頃
薄タイル
150角・厚さ4mmの薄いタイルが、輸出向けに製造される。
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1960年頃
シルクスクリーン技法
シルクスクリーン印刷法を取り入れたタイルの製造が始まる。
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1985年頃
大型タイル
外装・内装に、300角や500角の大型タイルが普及し始める。
【美濃地方のタイルの歴史】
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1931年
京都でタイルの生産研究に励んだ山内逸三が、地元笠原町に戻り、施釉テラコッタの実用化に成功。これが美濃焼地区および笠原のタイル産業発展に大きく貢献しました。
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1936年
加藤重保らが、多治見市下ノ町(現京町)に「日本建陶有限会社」を設立。無釉モザイクタイルの製造を開始。これが東濃地区初のモザイク製造とされています。
まとめ
いかがでしたか? 日本のタイルは、中国や西洋の文化を貪欲に吸収する中で芽生え、独自の発展を遂げてきました。そして、記事中でもご紹介したとおり、今年2022年は、日本における「タイル名称統一100周年」の年にあたります。
これまでのタイルの歴史を踏まえ、先人達の偉業に想いを馳せながら、次の100年のために、リサイクルタイルをはじめとした「これからのタイル」の可能性を探っていければ何よりです。
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